このコラムを「万葉広場」と名付けました。
万葉集の名にあるように万葉とはよろずの言の葉を意味しています。 私たちが便利に使っている葉書にも葉の字が使われています。 戦国時代にタラヨウという木の葉の裏に文字を書き情報のやり取りをしたのが葉書の由来だそうです。
「万葉広場」はいのちの電話の活動を推進している私たちが、日頃思っていること、 感じていること、心掛けていることなど、その一端を皆様に紹介する「言葉の広場」です。
万葉集の名にあるように万葉とはよろずの言の葉を意味しています。 私たちが便利に使っている葉書にも葉の字が使われています。 戦国時代にタラヨウという木の葉の裏に文字を書き情報のやり取りをしたのが葉書の由来だそうです。
「万葉広場」はいのちの電話の活動を推進している私たちが、日頃思っていること、 感じていること、心掛けていることなど、その一端を皆様に紹介する「言葉の広場」です。
column20 映画「ミッドナイト・イン・パリ」を観て思うこと
東京いのちの電話のチャリティ映画、「ミッドナイト・イン・パリ」を観た。
チラシの案内によるあらすじをそのままに。
ハリウッドの売れっ子脚本家ジル。人生の絶頂期にいる彼は婚約者イネズと共に パリを訪れていた。物思いに耽って真夜中の街をぶらついていると、深夜0時の時計台の鐘の音に導かれ、1920年代のパリのサロンに迷い込んでしまう。 フィッツジェラルド、ヘミングウエイ、ピカソらが次々と現れて・・・。
2011年スペイン・アメリカ合作 監督・脚本:ウディ・アレン
映画はその波に乗って楽しめばそれでいいのだとは思うが、ついいろいろと深読みをしてしまう。
冒頭、ジルはパリには雨が似合うから濡れながら歩こう、と婚約者に言うが理解して貰えない。ジルが脚本家をやめて小説家になりたいというと、生活はどうするのかと一蹴される。アメリカの上流社会の婚約者の親子が高級品を求めようとするのに対し、ジルは骨董品のような古いものを買い求めようとする。何軒もの骨董品屋を回り、女店員に古い譜面が入ったら取って置いてと言う。なので、婚約者とは噛み合わない場面が多くなる。
なにやらアメリカ社会を通じて、現代社会に対する皮肉のように感じられた。
タイムスリップしている間に出現する先の巨匠たちのエピソードが、本当はね、みたいな感じで展開していく。真実の程は私には分からないが、それなりに楽しめた。
そして、その巨匠たちの新しい魂への挑戦も、その時代にあってはなかなか評価してもらえない。ピカソの作品のように。
ジルが古いものを求めるように、自分たちの時代より前の時代がよかったと言われる。古いものが残っているノスタルジックなパリにも時代の変化があり、過ぎ去った時代に思いを馳せる。
ただそれだけでいいのかも知れない。
が、いろいろと余計なことまで考えてしまう。
後世の人達が、シュールレアリズムの前衛的な精神の輝きを芸術の黄金時代に思えたその過去も、その時代の多くの人達には、すんなりとは受け容れてもらえない。 いつの時代もそうなのかもしれない。
時代を超えるものあり、留まるものありで、変化しながら止めることが出来ない時代の流れは、後を引き継いで生きる人間の命のバトンにも通じるような気がした。時代を選べないのだから、今を精一杯生きるしかないのだ、と言われているように感じられた。
ラストは婚約を解消したジルが、行くあてもなく雨のパリを彷徨っていると、あの骨董 屋の女店員と偶然再会する。譜面が入ったら取りに来ると言っていたので、待っていたと。
えっ、あんなところにラストの伏線が潜んでいたの? 参ったなあ。
やっとジルは価値観を分かち合える相手と巡り合う。雨の中を傘もささずに、二人並んで遠ざかって行くラストシーン。 いくらパリに雨が合うからって、ずぶ濡れですかぁ。
その身体感覚を想像して、あり得な〜いと思う私の感性はまだまだ浅いのかもしれない。
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ハリウッドの売れっ子脚本家ジル。人生の絶頂期にいる彼は婚約者イネズと共に パリを訪れていた。物思いに耽って真夜中の街をぶらついていると、深夜0時の時計台の鐘の音に導かれ、1920年代のパリのサロンに迷い込んでしまう。 フィッツジェラルド、ヘミングウエイ、ピカソらが次々と現れて・・・。
2011年スペイン・アメリカ合作 監督・脚本:ウディ・アレン
映画はその波に乗って楽しめばそれでいいのだとは思うが、ついいろいろと深読みをしてしまう。
冒頭、ジルはパリには雨が似合うから濡れながら歩こう、と婚約者に言うが理解して貰えない。ジルが脚本家をやめて小説家になりたいというと、生活はどうするのかと一蹴される。アメリカの上流社会の婚約者の親子が高級品を求めようとするのに対し、ジルは骨董品のような古いものを買い求めようとする。何軒もの骨董品屋を回り、女店員に古い譜面が入ったら取って置いてと言う。なので、婚約者とは噛み合わない場面が多くなる。
なにやらアメリカ社会を通じて、現代社会に対する皮肉のように感じられた。
タイムスリップしている間に出現する先の巨匠たちのエピソードが、本当はね、みたいな感じで展開していく。真実の程は私には分からないが、それなりに楽しめた。
そして、その巨匠たちの新しい魂への挑戦も、その時代にあってはなかなか評価してもらえない。ピカソの作品のように。
ジルが古いものを求めるように、自分たちの時代より前の時代がよかったと言われる。古いものが残っているノスタルジックなパリにも時代の変化があり、過ぎ去った時代に思いを馳せる。
ただそれだけでいいのかも知れない。
が、いろいろと余計なことまで考えてしまう。
後世の人達が、シュールレアリズムの前衛的な精神の輝きを芸術の黄金時代に思えたその過去も、その時代の多くの人達には、すんなりとは受け容れてもらえない。 いつの時代もそうなのかもしれない。
時代を超えるものあり、留まるものありで、変化しながら止めることが出来ない時代の流れは、後を引き継いで生きる人間の命のバトンにも通じるような気がした。時代を選べないのだから、今を精一杯生きるしかないのだ、と言われているように感じられた。
ラストは婚約を解消したジルが、行くあてもなく雨のパリを彷徨っていると、あの骨董 屋の女店員と偶然再会する。譜面が入ったら取りに来ると言っていたので、待っていたと。
えっ、あんなところにラストの伏線が潜んでいたの? 参ったなあ。
やっとジルは価値観を分かち合える相手と巡り合う。雨の中を傘もささずに、二人並んで遠ざかって行くラストシーン。 いくらパリに雨が合うからって、ずぶ濡れですかぁ。
その身体感覚を想像して、あり得な〜いと思う私の感性はまだまだ浅いのかもしれない。
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