サマリタンズホームページより/第2号
2013年12月26日発行
■サマリタンズの歴史
Samaritans運動の歴史
サマリタンズ運動は1953年、ロンドンの教区牧師チャッド・バラー(Chad Varah)によって始められた。Chadは仕事を通して教区信徒にカウンセリングの機会を提供し、自殺したい気持ちと闘っている人や自殺を考えている人を助けるために具体的に何かしたいと思っていた。
Samaritansはどのようにして始まったか
サマリタンズ運動を思い立った最初のアイデアは、牧師として仕事を開始した初期のころ執り行った葬儀からきている。それは、14歳で初潮が始まった一人の少女の葬儀だったのだが、彼女は初潮について話せる人が誰もいなかったために、それを性交渉で移された病気だと信じてしまい、自殺してしまったのだった。
Chadは命の無意味な喪失に大変心を痛めた。“私はその時その場で、たとえどんなに恥ずかしいことであっても相談できる人間のネットワークをつくることで自殺を食い止めたい、そのために身をささげようと思った。しかし、それができたのは後になってからです。”と語った。
Samaritans活動の準備
ChadがSt Stephen教会主任牧師に任命されたのは1953年の夏で、自殺を考えている人のために“999(救急電話)”にあたるものを立ち上げる時期にきていると考えた。彼自身の言葉で言うと、“一室を基地(base)に1台の緊急電話で、喜んで人の話に耳を傾ける(a man willing to listen)人間になる”と。
この奉仕事業(service)の電話に最初にかかってきたのが1953年11月2日で、この日がSamaritansの公式な誕生日として知られている。
Samaritans の宣伝
ChadはSamaritansの活動を外に向かって発信(発表)する必要を感じた。彼は、幸運にも、子供向けコミック誌にイラスト入り原稿を寄稿していた。そのことを通して、国内の新聞で働いている多くの新聞記者を知っていた。奉仕事業に関する沢山の記事が掲載され、1953年11月7日のDaily Mirror紙が“電話による良きサマリヤ人(Telephone Good Samaritans)”と命名した。もちろんSamaritans は宗教団体ではないが、その命名はぴったりで、苦難・困難と闘っている人のために電話の前に座っている人々の思いと一致していた。
新聞記事が効果を生み、Chadは支援を求めている多くの人から、電話でと同時に直接の来談を受け、また、ボランティアとして手助けを申し出た人々を得た。ボランティアの主な仕事は来訪者(callers)が約束の面談時間がくるまでの待ち時間、横に座りおしゃべりをすることであった。まもなく、彼らの役割がSamaritans活動にとってより中心的なものであることが明らかになってきた。しばしば、来訪者は彼らの問題をボランティアに吐き出した。その結果、多くの者はその後Chadと話す番がきた時、話す必要を感じなくなっていた。
傾聴し、そして評価することなく支持するという単純な行為(The simple act of listening and offering non-judgmental support)が来訪者にとってはそれだけで十分であり、Chadが気づいたのは、安全な空間を提供することこそが奉仕活動の力であり、そこでこそ人は話し、評価抜きで聞いてもらえるということだった。
全国的な活動への発展
ロンドンをベースとした活動(サービス)のニュースは国内の他の地域での関心を呼び起こした。結果として、後にいくつかのSamaritansセンターが設立された。二番目のセンターは1959年1月1日、エジンバラで最初の電話を受けた。現在では201支部(branch)が英国国内とアイルランド共和国にある。
1954年2月、Chadは正式にcallersの支援を全面的にボランティアに引き継いだ。そこから、現在私たちが知っているSamaritansが生まれた。今日におけるSamaritansの奉仕活動(サービス)は依然として、Chadの「守秘義務(confidential)、評価・判断を下さない(non-judgmental)」の支援指針によって運営されている。
■Chad Varahの話 ― 私はどのようにして、そして何故、サマリタンズを始めたのか ―
誰にでも開放されている青年会活動、高齢者向けの声を張り上げてのお祈り会、教会での教育活動、自転車を利用しての病人のための訪問聖餐式、それらの活動がない時、私は深夜の2・3時まで生活費を稼ぐためタイプライターにむかっていた。私の給与は私の秘書への手当を賄うだけのものだった。私は自分が幸せかどうかを考えるゆとりはなかったし、そういう方法で暮らしていくのがやっとだった。
14歳の少女が初潮を梅毒と思いこみ自殺した。その少女の葬儀が牧師としての最初の仕事で、その時から18年が経った。私はその間自殺予防に対し何もしなかった。しかし、25歳の時に自分自身をスケベおやじと銘打って、自殺防止を創案するまで、あらゆる機会を利用して若者を捕まえ性に関することを教え、私が主宰する青年会に加入させ、そして若いカップルに結婚準備に来るよう誘い、気が合わなくなっているカップルに結婚生活指導を受けるよう導いた。
1952年、セックスに関する退屈なシリーズ記事に対し、読者から何の反応も返ってこなかった時、Picture Post誌の編集者から、私は彼にとってうってつけの人と思われ、何か刺激的なものを書いてくれないかと頼まれた。私は多分、寛容社会に先陣を切って記事を書くことに貢献した。(略)予想通り、彼は喜んだ、新聞が良く売れたから。私が嬉しかったのは、問題を抱えたちょうど100人(後に235人)が、“問題のすべて”を私宛に手紙を書いてきたことだった。私は彼らの内の14人が自殺を考えていたと思った。そして、そのうちの一人だけが精神科医を必要としていた。その人さえも、精神科医でなく私に診てもらおうとした。
その当時、ロンドンでは1日3人の自殺者が出ているとの要約記事を読んだ。そのような人が、申し分のない我らが福祉国家の医師やソーシャルワーカーを頼みにしていないとしたらどうするんだろうか。どのような種類の人を頼りにするのだろうか。確かにある人は私を選んでくれた。私が革新的考えを持っているからと。
命を救うことがそんなにたやすいことなら、私はどうして四六時中そのことをやらないのか?わたしは自問自答した。どうやって、生計は何で立てるのか?そして、危機にある人はその時、どのようにして連絡をとってくるのか?
(中略)
時期尚早、確かに?自殺を考えている人にとって緊急用電話が必要と私は考えた。そこで神に向かって、納得のいく判断を!私の方を見ないでと言った。私はイギリスの教会のなかでことによると、もっともいそがしい人物だった。市の教会の中で、教区信徒を持たない教会牧師が必要と考えていた。その問題に取り組みながら、英国国教会のあるKnokkeに普段の日と同じように出かけていった。
そこにいる間に、突然、一本の電報を受け取った。それは、ロンドン市中心部の WalbrookにあるSt Stephen教会の牧師出願を勧めるものであった。教会後援者である食料名誉組合(Worshipful Company of Grocers)の面々による面接を受けた時、私は彼らに私の途方もない企画を話した。事業成功者である後援者の決定は私を指名した。理由は試みてみる価値ある企画ということで、わたしへの全幅の信頼であった。
私がやったことは、企画が動き出した時に必要な全ての宣伝をするために、ロンドンの新聞社街の連中に一杯飲ませることだった。教会で受ける電話の電話番号は私が考えて要求していた、MAN9000になった。
私の秘書のVivianと1953年11月2日から数週間、相談電話を取ったり、来訪者を部屋に入れたりで大変だった。しかし、その時、相談業務にとっては役に立たない(useless)素人が助けを申し入れてきた。私が好きでない人はやめていただき、私のために望ましい形でお使いをしてくれ人、私の部屋に案内するまで待たせている来訪者を気持ち良く接待している人にはありがたく残ってもらった。
間もなく、彼らが私以上に来訪者に対し良い働きをしていることが明らかになった。全ての来訪者がBefriending(その当時そう呼んでいた)を必要としていた。ほんの少数の者が私のカウンセリングを必要としていた。あるいは精神科医を必要としていた。1954年2月2日、これらの素人のみんなを一か所に呼んで、次のように言った。「あなた方Samaritansの出番です。私は二度と緊急用電話には出ません。また、来訪者がドアをたたいた時、『部屋に入っていらっしゃい。コーヒーは如何ですか』とも言いません。
私はあなた方を選び、教育し、訓練する。もし必要ならやめていただく。あなた方のBefriending以上のものを必要としている来訪者がいたらその人を私は診る。そして、あなた方が対応するのに適任であるかどうかの判断をする。
しかし、あなた方は救命主(life-savers)だ。そしていつの日か、全ての人が自殺を考えている人が何を必要としているか知る。現在、多くの人は知っているが。
Befriendingは英国において数千の命を救ってきた。私の現在の仕事はその働きを世界中で組織化すること。自殺が死亡原因の中で重要なものでなくなる日まで。」
Samaritans運動の歴史
サマリタンズ運動は1953年、ロンドンの教区牧師チャッド・バラー(Chad Varah)によって始められた。Chadは仕事を通して教区信徒にカウンセリングの機会を提供し、自殺したい気持ちと闘っている人や自殺を考えている人を助けるために具体的に何かしたいと思っていた。
Samaritansはどのようにして始まったか
サマリタンズ運動を思い立った最初のアイデアは、牧師として仕事を開始した初期のころ執り行った葬儀からきている。それは、14歳で初潮が始まった一人の少女の葬儀だったのだが、彼女は初潮について話せる人が誰もいなかったために、それを性交渉で移された病気だと信じてしまい、自殺してしまったのだった。
Chadは命の無意味な喪失に大変心を痛めた。“私はその時その場で、たとえどんなに恥ずかしいことであっても相談できる人間のネットワークをつくることで自殺を食い止めたい、そのために身をささげようと思った。しかし、それができたのは後になってからです。”と語った。
Samaritans活動の準備
ChadがSt Stephen教会主任牧師に任命されたのは1953年の夏で、自殺を考えている人のために“999(救急電話)”にあたるものを立ち上げる時期にきていると考えた。彼自身の言葉で言うと、“一室を基地(base)に1台の緊急電話で、喜んで人の話に耳を傾ける(a man willing to listen)人間になる”と。
この奉仕事業(service)の電話に最初にかかってきたのが1953年11月2日で、この日がSamaritansの公式な誕生日として知られている。
Samaritans の宣伝
ChadはSamaritansの活動を外に向かって発信(発表)する必要を感じた。彼は、幸運にも、子供向けコミック誌にイラスト入り原稿を寄稿していた。そのことを通して、国内の新聞で働いている多くの新聞記者を知っていた。奉仕事業に関する沢山の記事が掲載され、1953年11月7日のDaily Mirror紙が“電話による良きサマリヤ人(Telephone Good Samaritans)”と命名した。もちろんSamaritans は宗教団体ではないが、その命名はぴったりで、苦難・困難と闘っている人のために電話の前に座っている人々の思いと一致していた。
新聞記事が効果を生み、Chadは支援を求めている多くの人から、電話でと同時に直接の来談を受け、また、ボランティアとして手助けを申し出た人々を得た。ボランティアの主な仕事は来訪者(callers)が約束の面談時間がくるまでの待ち時間、横に座りおしゃべりをすることであった。まもなく、彼らの役割がSamaritans活動にとってより中心的なものであることが明らかになってきた。しばしば、来訪者は彼らの問題をボランティアに吐き出した。その結果、多くの者はその後Chadと話す番がきた時、話す必要を感じなくなっていた。
傾聴し、そして評価することなく支持するという単純な行為(The simple act of listening and offering non-judgmental support)が来訪者にとってはそれだけで十分であり、Chadが気づいたのは、安全な空間を提供することこそが奉仕活動の力であり、そこでこそ人は話し、評価抜きで聞いてもらえるということだった。
全国的な活動への発展
ロンドンをベースとした活動(サービス)のニュースは国内の他の地域での関心を呼び起こした。結果として、後にいくつかのSamaritansセンターが設立された。二番目のセンターは1959年1月1日、エジンバラで最初の電話を受けた。現在では201支部(branch)が英国国内とアイルランド共和国にある。
1954年2月、Chadは正式にcallersの支援を全面的にボランティアに引き継いだ。そこから、現在私たちが知っているSamaritansが生まれた。今日におけるSamaritansの奉仕活動(サービス)は依然として、Chadの「守秘義務(confidential)、評価・判断を下さない(non-judgmental)」の支援指針によって運営されている。
出典:Home > About us > Our organisation > Samaritans at 60 > The history of Samaritans
■Chad Varahの話 ― 私はどのようにして、そして何故、サマリタンズを始めたのか ―
誰にでも開放されている青年会活動、高齢者向けの声を張り上げてのお祈り会、教会での教育活動、自転車を利用しての病人のための訪問聖餐式、それらの活動がない時、私は深夜の2・3時まで生活費を稼ぐためタイプライターにむかっていた。私の給与は私の秘書への手当を賄うだけのものだった。私は自分が幸せかどうかを考えるゆとりはなかったし、そういう方法で暮らしていくのがやっとだった。
14歳の少女が初潮を梅毒と思いこみ自殺した。その少女の葬儀が牧師としての最初の仕事で、その時から18年が経った。私はその間自殺予防に対し何もしなかった。しかし、25歳の時に自分自身をスケベおやじと銘打って、自殺防止を創案するまで、あらゆる機会を利用して若者を捕まえ性に関することを教え、私が主宰する青年会に加入させ、そして若いカップルに結婚準備に来るよう誘い、気が合わなくなっているカップルに結婚生活指導を受けるよう導いた。
1952年、セックスに関する退屈なシリーズ記事に対し、読者から何の反応も返ってこなかった時、Picture Post誌の編集者から、私は彼にとってうってつけの人と思われ、何か刺激的なものを書いてくれないかと頼まれた。私は多分、寛容社会に先陣を切って記事を書くことに貢献した。(略)予想通り、彼は喜んだ、新聞が良く売れたから。私が嬉しかったのは、問題を抱えたちょうど100人(後に235人)が、“問題のすべて”を私宛に手紙を書いてきたことだった。私は彼らの内の14人が自殺を考えていたと思った。そして、そのうちの一人だけが精神科医を必要としていた。その人さえも、精神科医でなく私に診てもらおうとした。
その当時、ロンドンでは1日3人の自殺者が出ているとの要約記事を読んだ。そのような人が、申し分のない我らが福祉国家の医師やソーシャルワーカーを頼みにしていないとしたらどうするんだろうか。どのような種類の人を頼りにするのだろうか。確かにある人は私を選んでくれた。私が革新的考えを持っているからと。
命を救うことがそんなにたやすいことなら、私はどうして四六時中そのことをやらないのか?わたしは自問自答した。どうやって、生計は何で立てるのか?そして、危機にある人はその時、どのようにして連絡をとってくるのか?
(中略)
時期尚早、確かに?自殺を考えている人にとって緊急用電話が必要と私は考えた。そこで神に向かって、納得のいく判断を!私の方を見ないでと言った。私はイギリスの教会のなかでことによると、もっともいそがしい人物だった。市の教会の中で、教区信徒を持たない教会牧師が必要と考えていた。その問題に取り組みながら、英国国教会のあるKnokkeに普段の日と同じように出かけていった。
そこにいる間に、突然、一本の電報を受け取った。それは、ロンドン市中心部の WalbrookにあるSt Stephen教会の牧師出願を勧めるものであった。教会後援者である食料名誉組合(Worshipful Company of Grocers)の面々による面接を受けた時、私は彼らに私の途方もない企画を話した。事業成功者である後援者の決定は私を指名した。理由は試みてみる価値ある企画ということで、わたしへの全幅の信頼であった。
私がやったことは、企画が動き出した時に必要な全ての宣伝をするために、ロンドンの新聞社街の連中に一杯飲ませることだった。教会で受ける電話の電話番号は私が考えて要求していた、MAN9000になった。
私の秘書のVivianと1953年11月2日から数週間、相談電話を取ったり、来訪者を部屋に入れたりで大変だった。しかし、その時、相談業務にとっては役に立たない(useless)素人が助けを申し入れてきた。私が好きでない人はやめていただき、私のために望ましい形でお使いをしてくれ人、私の部屋に案内するまで待たせている来訪者を気持ち良く接待している人にはありがたく残ってもらった。
間もなく、彼らが私以上に来訪者に対し良い働きをしていることが明らかになった。全ての来訪者がBefriending(その当時そう呼んでいた)を必要としていた。ほんの少数の者が私のカウンセリングを必要としていた。あるいは精神科医を必要としていた。1954年2月2日、これらの素人のみんなを一か所に呼んで、次のように言った。「あなた方Samaritansの出番です。私は二度と緊急用電話には出ません。また、来訪者がドアをたたいた時、『部屋に入っていらっしゃい。コーヒーは如何ですか』とも言いません。
私はあなた方を選び、教育し、訓練する。もし必要ならやめていただく。あなた方のBefriending以上のものを必要としている来訪者がいたらその人を私は診る。そして、あなた方が対応するのに適任であるかどうかの判断をする。
しかし、あなた方は救命主(life-savers)だ。そしていつの日か、全ての人が自殺を考えている人が何を必要としているか知る。現在、多くの人は知っているが。
Befriendingは英国において数千の命を救ってきた。私の現在の仕事はその働きを世界中で組織化すること。自殺が死亡原因の中で重要なものでなくなる日まで。」
出典:Home > About us>Our organisation > Samaritans at 60>The history of Samaritans > How and why I started The Samaritans, by Chad Varah